出生地:横浜市磯子区磯子
血液型:AB型
身長:167cm
好きな食べ物:焼きそば&ライス
よく使う言葉:所謂
第一章 「幼少期~アマチュア時代」
1959年7月17日、警察官の父と、三味線と日本舞踊の師匠である母の元、杉山清貴の歴史はスタートしました。
ゴジラやガメラなどの怪獣映画に夢中だった幼少期、転機が訪れたのは小学4年の頃、ラジオから流れているビートルズの「イエスタデイ」に魅かれるものを感じ、ポピュラーミュージックに目覚めました。
小遣いの大半をレコード購入に充て、小学校卒業までにビートルズのレコードを海賊版を含めて全て揃えるという偉業を達成しました。
レコードが揃うまでの間は、ラジオの電話リクエスト番組にリクエストをして、自身のリクエストが採用されることを楽しみにする日々を過ごしていました。
そのラジオ局の電話オペレーターのひとりが、後に結婚・離婚することとなる柳沢裕子さんで、小学生の身でありながらアルバイトをしていて、杉山清貴少年の心は、その美しい声に魅かれていくこととなりました。
音楽活動が具体化し始めたのは14歳の頃でした。
中学校の部活の剣道部と、ボーイスカウトを両立するなか、アマチュアバンド「バンパイヤ」においてボーカリストとしての第一歩を踏み出しました。
容姿にはこだわりを持っておらず、ステージ衣装は学生服でした。
そして、横須賀学院高等学校に進学し、バンド「THE MESS」で活躍しました。
このまま音楽活動を続けていくのか、得意としている漫画の能力を高めるために芸術大学に進学するのか、将来の道を模索する時期となりました。
初恋の相手がアニメ「レインボー戦隊ロビン」のキャラクターである看護ロボットのリリというくらいのアニメ好きで、漫画を描くことを得意としていたのです(2度目の恋は「ドロロンえんま君」に出てくる雪女の雪子でした)。
進路が定まらないなか、横浜のアマチュアバンドの憧れであったライブハウス「ファー・イースト」への出演を目指し、「LAMB」、「SKYLORD#2」、「横浜べニーズ」といったバンドを経験し、ミュージシャンとしてのスキルを向上させていきました。
高校3年の夏には自主制作によるレコードを完成するまでに至りました。
※2020年5月13日投稿のインスタグラムにその初々しい唄声が公開されています
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その後、通っていた予備校の先生の後押しもあり、漫画家の夢を断ち切り、音楽の道に進むことを決断し、19歳の頃、バンド「トニー田口&きゅうてぃぱんちょす」に臨時で加入しました。
後にプロデビューを果たす「杉山清貴&オメガトライブ」のメンバーである、吉田健二(ギター)、高島信二(ギター)、広石恵一(ドラム)もメンバーの一員でした。
翌年には、オリジナルバンドとして「きゅうてぃぱんちょす」を発足させ、別バンド「ラリーズ・パパ」との二足の草鞋を履き、音楽活動を更に活性化させていきました。
その後、バンドを「きゅうてぃぱんちょす」1本に絞り、現在音楽プロデューサーとして活躍している千住明がキーボードとしてメンバーに加わりました。
そして、プロデビューの登竜門とされていた、アマチュアバンドコンテスト「ヤマハ・ポピュラー・ミュージック・コンテスト」(通称:ポプコン)に3回出場しました。
エントリー曲は、第18回「マイ・ライフ」、第19回「ゴスペルの夜」、第20回「乗り遅れた747」で、「ゴスペルの夜」では本線に入選を果たしました。
この頃から実家を出て、四畳半一間の家賃2万円のアパート暮らしを始めました。
バンド活動がポプコンありきの方向に傾きつつあり、これは本意ではないと判断し、再度活動の場をライブハウスに移しました。
そして22歳の頃、ポプコン会場の顔見知りだった、バンド「トライアル・スポット」のベースとして活躍していた大島孝夫が「きゅうてぃぱんちょす」に加入しました。
さらに、千住明の後任としてジャズスクールに通っていた西原俊次が加わり、「杉山清貴&オメガトライブ」のデビュー当時のメンバー構成(杉山清貴、吉田健二、高島信二、広石恵一、西原俊次、大島孝夫)が形成されることとなりました。
そして翌年には、事務所「トライアングルプロダクション」に所属しプロデビューすることが決定しました。
プロジェクトスタッフ主導の元、80年代にマッチした新たなミュージックスタイルの追求が始まったのです。
第二章 「プロデビュー~杉山清貴&オメガトライブ解散」
バンド名については、「きゅうてぃぱんちょす」から「オメガトライブ」に変更されました。
発案者は、ハワイの人気DJカマサミ・コングで、「オメガ(Ω)」はギリシャ語アルファベットの最後の文字で意味は「最後」、「トライブ」は英語で日本語に訳すと「部族」、あわせて「最後の部族」という意味を持ち、コンセプトは、「最後の部族だからこそ次の時代の最初を覗くことができる」というもの。
カマサミ・コングからは、「オメガトライブ」以外にも、複数のバンド名があげられていました。
そのなかのひとつ「タイクス」を杉山清貴は推していました。
「タイクス」のコンセプトは、出口を意味する「EXIT」のスペルを逆さまにし、「出口の反対、入り口の扉」というものでしたが、ロック色を強くイメージさせるという理由で不採用となりました。
バンド名は「オメガトライブ」に決定したかに思われましたが、再度協議することになりました。
協議内容は最初に「杉山清貴&」を付けるかどうかでした。
杉山清貴のアマチュア時代の流れから、自らバンドを形成するミュージシャンではなく、バンドに参加するミュージシャンであったことから、バンド名の最初に「杉山清貴&」を付けるべきだという結論に達し、バンド名「杉山清貴&オメガトライブ」が最終決定しました。
そして、作曲・林哲司、作詞・康珍化という豪華な布陣で、曲目「海風通信」でのプロデビューのプロジェクトが進められていきました。
デビュー曲については、「海風通信」よりも、もう少しドメスティックな方向性の曲の方が時代にマッチしていると考え、誕生した曲が「サマー・サスピション」で、こちらも作曲・林哲司、作詞・康珍化によるものでした(「海風通信」は後に発売される1stアルバム「AQUA CITY」のA面最後の5曲目に収められました)。
そして遂に、1983年4月21日に「サマー・サスピション」を引っ提げプロデビューを果たすこととなりました。
アマチュアバンドからいきなり「プロジェクトとしてのバンド形態」を強いられたことに、メンバー達は戸惑いを隠すことはできませんでした。
特にベースの大島孝夫とドラムの広石恵一は強い違和感を覚えていて、事務所との距離を置くようになりました。
レコーディングにスタジオミュージシャンがいることや、メンバー以外の作家により曲が作られたことなどが腑に落ちなかった大島孝夫は、デビュー当日、杉山清貴に「解散」を提案するも、杉山清貴の強い説得により、解散は回避されました。
大島孝夫はこの日、飲酒検問に引っかかるも大きな問題には至りませんでした。
プロジェクトは、強い影響力のあったテレビに焦点が当てられ、TBS系列の生放送番組「アップルシティ500」に毎週出演するスケジュールが組まれていました。
これが「サマー・サスピション」のヒットの要因のひとつとなり、あわせて10代、20代の多くの女性ファンを生んでいきました。
また、「杉山清貴&オメガトライブ」の文字数が、当時の新聞テレビ欄の横一行ピッタリに収まることが、更に認知度を高める要因のひとつとなりました。
もうひとつプロジェクトとして画期的だったことは、「レコードジャケットに人物を用いない」ということでした。
当時にとっては珍しいこともあり、お洒落なジャケット写真は見事に人々の心を捉えたのですが、このことが後の「解散」のきっかけのひとつとなってしまいました。
その後もレコーディング、メディアへの露出を繰り返し、デビュー約1年後、念願だったライブツアーがスタートしました。
ライブ中はプロジェクトから解放され、自由に音楽を楽しみことができると考えていたメンバー達でしたが、その期待とは裏腹にMCにまで台本が用意されていました。
初日のライブは台本通り行いましたが、その日のうちに杉山清貴は台本を破り捨て、「ライブだけは誰にも口出しさせない」というライブ・バンドとしての信念を貫きました。
「プロジェクトとしてのバンド形態」、「レコードジャケットに存在しない自分たち」にメンバー達は「杉山清貴&オメガトライブ」の実像を感じることができなくなっていったのです。
元々、バンド形成型ミュージシャンではなく、バンド参加型ミュージシャンであった杉山清貴は、バンドの方向性を変えていくのではなく、自らの道を開拓していこうと考えることは自然なことでした。
そして絶頂期を迎える1985年、5thシングル曲「ふたりの夏物語」が大ヒットしているなか、杉山清貴から「解散」が提案されました。
メンバー同士の関係は良好でしたが、プロジェクト体制に強い違和感を覚えていた大島孝夫と広石恵一は解散に賛成、そして吉田健二も賛成しました。
一方、高島信二は解散後の方向性が不明確であることから反対、西原俊次も反対の立場をとりました。
賛成多数ということで、同年12月24日をもち解散することが決定しました。
解散までの間、全てのシングル曲の作曲を担ってきた林哲司が解散について考え直すよう杉山清貴に説得を試みましたが、杉山清貴の気持ちがブレることはありませんでした。
ギターの吉田健二は解散を待たずして脱退。
その後、12月24日に横浜文化体育館解散で行われたコンサートツアー「FIST FINALE」の最終日、アンコール最後の2曲「海風通信」、「サマー・サスピション」に吉田健二はサプライズ出演ました。
この時、杉山清貴はメンバー紹介する際、シークレットゲストの吉田健二を最後に紹介する段取りでしたが、最初に紹介してしまうという、人間らしさを垣間見ることができた最後の「杉山清貴&オメガトライブ」でした。