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2017年11月22日発売「杉山清貴 The Open Air Live High&High 2017」Blu-ray & DVD


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杉山清貴’s History

~杉山清貴プロフィール~
出生地:横浜市磯子区磯子
血液型:AB型
身長:167cm
好きな食べ物:焼きそば&ライス
よく使う言葉:所謂

第一章 「幼少期~アマチュア時代」

1959年7月17日、警察官の父と、三味線と日本舞踊の師匠である母の元、杉山清貴の歴史はスタートしました。

ゴジラやガメラなどの怪獣映画に夢中だった幼少期、転機が訪れたのは小学4年の頃、ラジオから流れているビートルズの「イエスタデイ」に魅かれるものを感じ、ポピュラーミュージックに目覚めました。

小遣いの大半をレコード購入に充て、小学校卒業までにビートルズのレコードを海賊版を含めて全て揃えるという偉業を達成しました。
レコードが揃うまでの間は、ラジオの電話リクエスト番組にリクエストをして、自身のリクエストが採用されることを楽しみにする日々を過ごしていました。

そのラジオ局の電話オペレーターのひとりが、後に結婚・離婚することとなる柳沢裕子さんで、小学生の身でありながらアルバイトをしていて、杉山清貴少年の心は、その美しい声に魅かれていくこととなりました。

音楽活動が具体化し始めたのは14歳の頃でした。
中学校の部活の剣道部と、ボーイスカウトを両立するなか、アマチュアバンド「バンパイヤ」においてボーカリストとしての第一歩を踏み出しました。
容姿にはこだわりを持っておらず、ステージ衣装は学生服でした。

そして、横須賀学院高等学校に進学し、バンド「THE MESS」で活躍しました。
このまま音楽活動を続けていくのか、得意としている漫画の能力を高めるために芸術大学に進学するのか、将来の道を模索する時期となりました。
初恋の相手がアニメ「レインボー戦隊ロビン」のキャラクターである看護ロボットのリリというくらいのアニメ好きで、漫画を描くことを得意としていたのです(2度目の恋は「ドロロンえんま君」に出てくる雪女の雪子でした)。

進路が定まらないなか、横浜のアマチュアバンドの憧れであったライブハウス「ファー・イースト」への出演を目指し、「LAMB」、「SKYLORD#2」、「横浜べニーズ」といったバンドを経験し、ミュージシャンとしてのスキルを向上させていきました。

そして、通っていた予備校の先生の後押しもあり、漫画家の夢を断ち切り、音楽の道に進むことを決断し、19歳の頃、バンド「トニー田口&きゅうてぃぱんちょす」に臨時で加入しました。
後にプロデビューを果たす「杉山清貴&オメガトライブ」のメンバーである、吉田健二(ギター)、高島信二(ギター)、広石恵一(ドラム)もメンバーの一員でした。

翌年には、オリジナルバンドとして「きゅうてぃぱんちょす」を発足させ、別バンド「ラリーズ・パパ」との二足の草鞋を履き、音楽活動を更に活性化させていきました。

その後、バンドを「きゅうてぃぱんちょす」1本に絞り、現在音楽プロデューサーとして活躍している千住明がキーボードとしてメンバーに加わりました。

そして、プロデビューの登竜門とされていた、アマチュアバンドコンテスト「ヤマハ・ポピュラー・ミュージック・コンテスト」(通称:ポプコン)に3回出場しました。
エントリー曲は、第18回「マイ・ライフ」、第19回「ゴスペルの夜」、第20回「乗り遅れた747」で、「ゴスペルの夜」では本線に入選を果たしました。

この頃から実家を出て、四畳半一間の家賃2万円のアパート暮らしを始めました。
バンド活動がポプコンありきの方向に傾きつつあり、これは本意ではないと判断し、再度活動の場をライブハウスに移しました。

そして22歳の頃、ポプコン会場の顔見知りだった、バンド「トライアル・スポット」のベースとして活躍していた大島孝夫が「きゅうてぃぱんちょす」に加入しました。
さらに、千住明の後任としてジャズスクールに通っていた西原俊次が加わり、「杉山清貴&オメガトライブ」のデビュー当時のメンバー構成(杉山清貴、吉田健二、高島信二、広石恵一、西原俊次、大島孝夫)が形成されることとなりました。

そして翌年には、事務所「トライアングルプロダクション」に所属しプロデビューすることが決定しました。
プロジェクトスタッフ主導の元、80年代にマッチした新たなミュージックスタイルの追求が始まったのです。




第二章 「プロデビュー~杉山清貴&オメガトライブ解散」

バンド名については、「きゅうてぃぱんちょす」から「オメガトライブ」に変更されました。
発案者は、ハワイの人気DJカマサミ・コングで、「オメガ(Ω)」はギリシャ語アルファベットの最後の文字で意味は「最後」、「トライブ」は英語で日本語に訳すと「部族」、あわせて「最後の部族」という意味を持ち、コンセプトは、「最後の部族だからこそ次の時代の最初を覗くことができる」というもの。

カマサミ・コングからは、「オメガトライブ」以外にも、複数のバンド名があげられていました。
そのなかのひとつ「タイクス」を杉山清貴は推していました。
「タイクス」のコンセプトは、出口を意味する「EXIT」のスペルを逆さまにし、「出口の反対、入り口の扉」というものでしたが、ロック色を強くイメージさせるという理由で不採用となりました。

バンド名は「オメガトライブ」に決定したかに思われましたが、再度協議することになりました。
協議内容は最初に「杉山清貴&」を付けるかどうかでした。
杉山清貴のアマチュア時代の流れから、自らバンドを形成するミュージシャンではなく、バンドに参加するミュージシャンであったことから、バンド名の最初に「杉山清貴&」を付けるべきだという結論に達し、バンド名「杉山清貴&オメガトライブ」が最終決定しました。

そして、作曲・林哲司、作詞・康珍化という豪華な布陣で、曲目「海風通信」でのプロデビューのプロジェクトが進められていきました。

デビュー曲については、「海風通信」よりも、もう少しドメスティックな方向性の曲の方が時代にマッチしていると考え、誕生した曲が「サマー・サスピション」で、こちらも作曲・林哲司、作詞・康珍化によるものでした(「海風通信」は後に発売される1stアルバム「AQUA CITY」のA面最後の5曲目に収められました)。

そして遂に、1983年4月21日に「サマー・サスピション」を引っ提げプロデビューを果たすこととなりました。

アマチュアバンドからいきなり「プロジェクトとしてのバンド形態」を強いられたことに、メンバー達は戸惑いを隠すことはできませんでした。
特にベースの大島孝夫とドラムの広石恵一は強い違和感を覚えていて、事務所との距離を置くようになりました。

レコーディングにスタジオミュージシャンがいることや、メンバー以外の作家により曲が作られたことなどが腑に落ちなかった大島孝夫は、デビュー当日、杉山清貴に「解散」を提案するも、杉山清貴の強い説得により、解散は回避されました。
大島孝夫はこの日、飲酒検問に引っかかるも大きな問題には至りませんでした。

プロジェクトは、強い影響力のあったテレビに焦点が当てられ、TBS系列の生放送番組「アップルシティ500」に毎週出演するスケジュールが組まれていました。
これが「サマー・サスピション」のヒットの要因のひとつとなり、あわせて10代、20代の多くの女性ファンを生んでいきました。
また、「杉山清貴&オメガトライブ」の文字数が、当時の新聞テレビ欄の横一行ピッタリに収まることが、更に認知度を高める要因のひとつとなりました。

もうひとつプロジェクトとして画期的だったことは、「レコードジャケットに人物を用いない」ということでした。
当時にとっては珍しいこともあり、お洒落なジャケット写真は見事に人々の心を捉えたのですが、このことが後の「解散」のきっかけのひとつとなってしまいました。

その後もレコーディング、メディアへの露出を繰り返し、デビュー約1年後、念願だったライブツアーがスタートしました。
ライブ中はプロジェクトから解放され、自由に音楽を楽しみことができると考えていたメンバー達でしたが、その期待とは裏腹にMCにまで台本が用意されていました。

初日のライブは台本通り行いましたが、その日のうちに杉山清貴は台本を破り捨て、「ライブだけは誰にも口出しさせない」というライブ・バンドとしての信念を貫きました。

「プロジェクトとしてのバンド形態」、「レコードジャケットに存在しない自分たち」にメンバー達は「杉山清貴&オメガトライブ」の実像を感じることができなくなっていったのです。

元々、バンド形成型ミュージシャンではなく、バンド参加型ミュージシャンであった杉山清貴は、バンドの方向性を変えていくのではなく、自らの道を開拓していこうと考えることは自然なことでした。

そして絶頂期を迎える1985年、5thシングル曲「ふたりの夏物語」が大ヒットしているなか、杉山清貴から「解散」が提案されました。
メンバー同士の関係は良好でしたが、プロジェクト体制に強い違和感を覚えていた大島孝夫と広石恵一は解散に賛成、そして吉田健二も賛成しました。
一方、高島信二は解散後の方向性が不明確であることから反対、西原俊次も反対の立場をとりました。

賛成多数ということで、同年12月24日をもち解散することが決定しました。
解散までの間、全てのシングル曲の作曲を担ってきた林哲司が解散について考え直すよう杉山清貴に説得を試みましたが、杉山清貴の気持ちがブレることはありませんでした。

ギターの吉田健二は解散を待たずして脱退。
その後、12月24日に横浜文化体育館解散で行われたコンサートツアー「FIST FINALE」の最終日、アンコール最後の2曲「海風通信」、「サマー・サスピション」に吉田健二はサプライズ出演ました。
この時、杉山清貴はメンバー紹介する際、シークレットゲストの吉田健二を最後に紹介する段取りでしたが、最初に紹介してしまうという、人間らしさを垣間見ることができた最後の「杉山清貴&オメガトライブ」でした。



杉山清貴、林哲司 「トークライブ」 by Ever Lasting Summer

プロの作曲家、作詞家を中心とするブレーンを持つバンドとしてデビューした「杉山清貴&オメガトライブ」。そのブレーンの中心として活躍したのが林哲司です。彼はパフォーマーとしてのメンバーではありませんでしたが、メイン・ソングライターであるだけでなく、グループにとってプラス・ワン的な意識で関わっていたのです。「ビートルズ」にとってのジョージ・マーティンのようなポジションかもしれません。その作曲家、アレンジャーの枠を超えた仕事はサウンド・アドバイザーやスーパーバイザーというクレジットにも表れています。そして「オメガトライブ」のフロント・マンであった杉山清貴。言うまでもなく、彼の強力なヴォーカルなしでは「オメガトライブ」の楽曲は成立しません。彼のヴォーカルこそが「オメガトライブ」のサウンドの方向づけに関与する最大の要素だったと言えます。


80年代の音楽シーンへ斬りこんだ「杉山清貴&オメガトライブ」の方法論は最初から意図的なものでした。日本の音楽マーケットを意識したドメスティックな曲調、メンバーの写真ではなく、夏やリゾートを連想させるイメージ・フォトを使ったレコード・ジャケットやポスター、そしてソフト・スーツを中心としたメンバーの衣装等が、豊かだった80年代、ワン・ランク上の風景に憧れるリスナーの気持ちを捉えたのです。そしてそれはプロデューサーの意志による見事な戦略だったのです。


杉山清貴:「アマチュア時代から「真夏のドア」をはじめとする林さんの曲はよく聴いていて、大好きだったんです。洋楽を意識したメロディとアレンジにはのめり込んでいましたね。」

林哲司:「僕が杉山君の存在を知ったのは、プロデューサーから「きゅうてぃぱんちょす」というバンドのデモテープを聴かせてもらった時だった。ジャーニー風のかなりロックっぽい音だったのでその路線で「海風通信」や「A.D.1959」を書いたんだけど、もう少しドメスティックなサウンドを求められた。そこで方向修正してつくったのが「SUMMER SUSPICION」なんだ。初めて会ったのは、たしかレコード会社の会議室だった。でも杉山君一人だけだったよね?。」

杉山清貴:「デビューにあたってプロデューサーは杉山清貴一人で売りに出すことを考えていたようなんですが、僕はバンドでやりたいという自分の意志を貫きました。」

林哲司:「プロでデビューする時によくある話だよね。「オメガトライブ」と同期ではどんなバンドがデビューしたっけ?。」

杉山清貴:「「チェッカーズ」が同期でした。デビュー当時はいつも「彼らは衣装があってすごいなぁ。」なんて思っていました。オメガトライブは全員自前の服装だったので・・・(笑)。プロデューサーはルックスより音で勝負するつもりだったんでしょうね。」

林哲司:「それはレコード・ジャケットにも表れていたよね。メンバーの写真ではなく夏やリゾートを思わせるイメージ・フォトを使っていたからね。当時は洋楽のAORにもそういう傾向があってレコード・ジャケットの戦略としては非常に時代とマッチしていたと思うよ。」

杉山清貴:「そうですね。これはシングル・アルバムすべてに一貫して採られた手法でしたから。それから、スーツを着るようになったのは「River’s Island」の頃だったかな。この当時は普段着にもスーツを着ていましたからね(笑)。スーツの腕をまくるのがある種のファッションにもなった。」

林哲司:「80年代はとにかくバブルな時代だったから「カフェバー」、「海」、「ビストロ」といった雰囲気でシャレ者を刺激する戦略だったんだよ。」

杉山清貴:「ところが、当時オメガトライブのメンバーはそういったことを何も聞かされていなかったので結構ギャップに悩んでいたんですよ。戦略をしっかり聞かされていたら、もっと成り切って演じていたかもしれない。そうしたらあと2年ぐらいは続いていたかな(笑)。」


杉山清貴のソングライターとしての資質は林哲司の楽曲を歌ったオメガトライブ時代に磨かれたといってよいでしょう。彼は林哲司の曲のエッセンスを吸収しながらオリジナリティを確立していったのです。


杉山清貴:「林さんの曲はアマチュア時代から聴いていて、「こういう曲が作れたらなあ」といつも思っていたんです。そこへ自分たちの曲として続々と手に入ることになったものですから、すぐさま勉強の対象として捉えるようにしました。1stアルバムの「AQUA CITY」には、「きゅうてぃぱんちょす」時代の曲も入っているんですが、林さんの曲と比べればクオリティの差がありすぎてかなりつらいものがあります。」

林哲司:「メンバーによるオリジナル曲を選定するのもプロデューサーだったよね。」

杉山清貴:「僕たちが提出した曲はプロデューサーの厳しい審査を通過しなければならなかったので、大変な競争率でした。「オメガトライブ」での2年半はソング・ライティングの修行の場でしたね(笑)。」

林哲司:「僕は、難しい曲でも杉山君なら歌えるという確信のもとに作っていた。だから歌入れの時はプロデューサーにまかせていて、僕は殆ど参加していない。」

杉山清貴:「その歌入れが大変な苦痛で・・・(笑)。プロデューサーは感情移入の激しい人だったので僕は歌詞の一語一句まで歌い方を指示されていました。だからレコーディングは自分を押し殺す作業でしたね。」

林哲司:「僕も感情の人間だから、プロデューサーと見解が違ったりするととてもその現場には居られないだろうなぁ、それに杉山君やオメガトライブのメンバーたちと接する時、作曲家の立場で関わるのと同じミュージシャンの立場で関わるのでは視点が変わってくるから、一方で曲を提供しながらもプロデューサーほど割り切れないものがあるんだよ。」

杉山清貴:「そうは言っても、いやだった歌入れのおかげでヴォーカリストとしてのテクニックはついたと思います。しかし、2年半でアルバム5枚というのはかなりのハイペースでしたね。」

林哲司:「僕もバンドもそれによって確かに消耗したけれど、逆に、だからこそそれだけエネルギーを集中できたんだよ。2年半という活動期間についてはどう思う?。」

杉山清貴:「オメガトライブのメンバーはアマチュアだった「きゅうてぃぱんちょす」の頃からずいぶん長い間一緒にやっているんです。だからバンドの寿命としてはこんなものじゃないかなと思います。たまたま、バンド活動の後期がプロだったというだけで・・・。」

林哲司:「僕がギャップを感じたのはファンの集いに参加した時だった。作品の作り手としてはシャレ者を刺激するつもりだったが、実際に集まっているのは、アイドルを追いかけまわすような普通の女の子ばかりだった。オメガトライブの在り方としての現実を突きつけられたようなものだった。」

杉山清貴:「ツアーの移動その合間にテレビ出演そしてレコーディングという具合で本当にタイトなスケジュールでした。いろいろ不満はありましたけど、ライブではメンバー全員楽しんでましたね。カバー曲を演ったり、いきなり曲のアレンジを変えちゃったりして・・・だってステージで演奏を始めてしまえば、だれも止めに入ることはできないですから(笑)。ツアーの途中でいきなり新曲が割り込むこともよくありましたが平気でした。オメガトライブのメンバーは曲を覚えるのが早いんですよ(笑)。」

林哲司:「メンバーは皆、仲良かったんだよね。」

杉山清貴:「そうです。メンバー間の不和は全くありませんでした。解散の提案もみんなで話し合って決めたんです。当時バンドは絶頂期に入っていてましたけど、人気なんていつまでも続くわけじゃないので、勢いがあるうちに次のステップへ移って苦労しようと考えたんです。そうしなければこの世界で生き残って行くための実力をつけることができない。高島信二と西原俊次は「オメガトライブ」で続けたかったようですが、僕も含めて他の4人のメンバーがやめる方向で考えていたので多数決で決定です(笑)。」

林哲司:「それは初めて聞いた話だよ。それで高島君と西原君は「1986オメガトライブ」を始めたんだね。杉山君も、もうソロ活動へのレールが敷かれていたのかと思っていた。」

杉山清貴:「実は何も予定など無かったんです。またメンバー捜して、曲作ってライブハウスから始めようかと・・・。」

林哲司:「そういえば、いよいよ解散秒読みという時期に「杉山説得の夜。」

というのがあって・・・(笑)。僕もこのグループにはずいぶん愛着があったので、杉山君を説得して、5枚目のアルバム「FIRST FINALE」を作ったんだ。アルバムタイトルも僕がつけたんだよ。」

杉山清貴:「確かにあの頃は他にも「説得の夜」は多かったですよ(笑)。」

林哲司:「そして、僕の中での「オメガトライブ」はここで完結した。だから、その後のプロジェクトへの参加はお断りしました。オメガトライブの初期は曲作りにもレコーディングにも良い意味でのハプニングが多くてそれだけ楽しめたんだけど、後半になると何もかもが計算づくめになってきた。プロデューサーが要求するブレイクの仕方や16のクイを多用しすぎたり、自分でもかなり食傷気味になってしまったんだ。このあたりも僕がピリオドを打った理由かもしれない。それに「オメガトライブというアーティストに依存する作曲家」という状況は避けたかったので、他でヒット曲を出さなければという使命感と勢いを持っていたいと思う。」


それぞれの理由から「杉山清貴&オメガトライブ」としての活動にピリオドを打った2人に共通するのは「完結」という言葉でした。そう、「オメガトライブ」は確かに解散したのであって、ソロ活動を開始する杉山清貴が脱退したのではありません。しかし、杉山清貴よりも先に元杉山オメガのメンバーである高島信二と西原俊次による「1986オメガトライブ」が始動します。


杉山清貴:「「さよならのオーシャン」を苦しみながら書いていた時でした。プロデューサーから出来上がったばかりの「君は1000%」を聴かされて焦ったのを覚えています。煽られてるなあって思いました(笑)。気合を入れてサビを何パターンも書いて悩んだのは後にも先にもあの曲だけです(笑)。」

林哲司:「なんだか自分を研究して作られた音なので妙な気分だったな。」

杉山清貴:「「1986オメガトライブ」の始動は予期せぬ出来事でしたが、逆に自分がオメガ・サウンドと違うところでオリジナリティを確立するためのきっかけになりました。」

林哲司:「思うに「杉山清貴&オメガトライブ」というグループ名はプロデューサーが企てた偉大なプランニングにハマったとも考えられる。」


今の自分を聴かせたい「アーティストの気持ち」と過去の曲を期待する「リスナーの気持ち」を両立させるのは難しいです。若い頃は誰もがどうしても現在進行形の自分にこだわるものですが、年齢を重ねると昔の曲を平然と演れるようになるそうです。オーディエンスの求めるパフォーマーとしての自分を見つめれば、全て自分が通過した軌跡として捉えることができるからです。


林哲司:「新作はいつも聴かせてもらっているよ。オメガトライブ時代の「NEVER ENDING SUMMER」や「ALONE AGAIN」をリメイクしていたけど、どんな心境で?。」

杉山清貴:「当時の自分はまだ若すぎて、実はオメガトライブの楽曲の詩の世界を全く理解できてなかったんですよ。ところが、年齢を重ねると詩の一言一言が見えてきたんです。」

林哲司:「それはヴォーカリストとしての成長でもあるんだよ。」

杉山清貴:「だから今の自分がもう一度歌えば、もっと良いものが出来るはずです。それから、自分のアレンジはよく変更しますが、オメガトライブ時代のヒット曲はなるべくアレンジを変えないようにしています。リスナーの心に残っているフレーズは壊さないほうが良いと思うんです。僕は、その時代その時代に見られるアルバムの色の変化、つまり表現者としての自分の意識の変化を楽しむのが好きなんです。どのアルバムもそれぞれ良い特徴があるのですが、その中で「ANOTHER SUMMER」が完璧に近いアルバムだと思います。曲としては、やはり「君のハートはマリンブルー」が別格です。デモテープを初めて聴いた時、鳥肌が立ったのを覚えていますよ。」

林哲司:「作り手としてはやはり「君のハートはマリンブルー」です。自分がクリエイターとして「オメガトライブ」というグループを通して自分の音楽性を大衆へどう投げかけるか、オメガトライブのキャラクターや時代性をトータルに考えて、ひとつの答えが見えた瞬間だった。アルバムでは「ANOTHER SUMMER」かな。自分の曲とメンバーの曲にあまり違和感がないし、夏をイメージしたトータル・アルバムとしての完成度も高い。」


僅か2年半という短い活動期間に7枚のシングルと5枚のアルバムを作り上げた「杉山清貴&オメガトライブ」、ソングライターの林哲司とヴォーカリストの杉山清貴が選んだフェイバリット曲、フェイバリット・アルバムは一致していました、必然的に・・・